沖縄県医師会 メディネット大樹おきなわ。
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■リレー随筆

仲 間

わくさん内科 院長
湧田 森明

湧田 森明氏

開業するつもりの無かった私が、今年の2月、中城に小さい診療所を開院した。私の心をその気にさせ、きっかけを作ってくれたのがテニス仲間である。

私は、毎週1回、テニスサークル(TCμ)で汗を流しているが、レッスン後にコート脇でビールを楽しく飲むのも毎週の最高のくつろぎ時間となっている。共にテニスを楽しみ、ビールを飲む楽しい時間は20代〜60代の年齢バラバラ、職業サマザマだが、皆元気である。そのくつろぎタイムの会話の中で、「老いてもテニスが出来て、海でも遊べて、共に楽しく過ごせ、一生を笑いながら送れる老人ホームが・・・」と言う話がでた。始めは皆、冗談の話であったが、毎週この話で盛り上がり、徐々に本気モードになってきた。「すぐにはできないから、手始めに開業から・・・・」という次第である。

へたな文章で申し訳ないが、開業のきっかけになったテニス、また最近気になっている歯について話してみたい。

テニスとの付き合いも随分長くなった。自分の歯との付き合いも随分長い。両方とも、徐々にガタがきつつあるようだ。最近、特に年齢と言う逆風を感じてきている。筋力の衰え?、気力の低下?、チョット動いただけで下肢のこむら返り、硬いものを食べるのが苦手になり、歯もグラグラ。かつては月1回の練習でもキツイとは感じなかったテニス、今は週1回でもきつい、週3回の練習をしなければ体力の維持は難しいと感じている(生活習慣病の患者さんにも週3回は運動が必要、週3回運動すれば効果ありと話している)。かつてはコーラやジュースの瓶の蓋を歯で開ける事が出来、さとうきびを簡単に歯で剥き、口の中で搾って食べたが、今はその面影すらもなく煎餅ごときも用心して食べている。これが老化か・・・風前の灯のテニスと歯であるが、テニス(テニス仲間)も歯も、自分にとってなくてはならない、かけがえのない大事な大切なものである。

昭和45年高校卒業時、沖縄には軟式テニス(ソフトテニス)部だけで硬式テニスはなかった。大学(衛生学部)に入学すると、逆に硬式テニスのみであった。それ以来の硬式テニスとの付き合いで、かれこれ36年になる。軟式用のシューズをはき、カワサキやフタバヤのラケットから始まった。コートは当然クレイ(土)、ハードコートでのプレイはまれであった(会員制のクラブにあった)。オムニコート(人工芝)は名前さえ聞いた事は無かった。ラケットは木製で折れるか曲がるかで取り替えであったが、現在の様にどの種類にしようか悩む事はなく、数本握って、すぶりをして、すぐに決めた。今のように選んで選んで結局決められないという事はなかった。

私が大学1年か2年の時であろうか、東京体育館?で第1回の室内大会(今思えば東レパンパシフィックの前身と思われる)があり、すぐ間近で世界のトッププロに接する機会があった。当時、日本選手は坂井利朗、神和住純、九鬼潤、石黒修?(日本人初のプロで俳優の石黒賢の父)、沢松和子・順子などがいた(他は思い出せない)。この頃、世界ではロッド・レーバーやケン・ローズウォールを代表とするオーストラリア勢がランキング上位を占め、この大会にもこの2人は出場していた。女子のキング夫人や男子のスタン・スミス(USA)も参加していた。この大会は、現在ではスポーツシューズで有名という(息子に教えてもらった)スタン・スミスが200kmサーブを武器に優勝したことを覚えている(女子の優勝者ははっきりしないが、沢松和子?、さだかではない)。弾丸サーブはネットの白帯にボールが当たると、体育館じゅうに「キーン」とこだましていた。すごい迫力であった。彼はその大会後、ベトナムへ出兵、帰国後の戦績はあまりかんばしくなく大変残念に思っていた。しかし今年のウインブルドンで彼(スタン・スミス)をテレビの中に見る事ができた。あの頃とほぼ同じスタイルで変わらず嬉しく思った。
大学時代、試合は団体・個人共に各大学内のコートで行われた事もあり、当時の東京都内の主な大学のほぼ全てのテニスコートでプレーできたと思っている。又、大学学生時代はテニス好きな大学職員とも一緒にテニスを楽しみ、卒業後は私もその職員のクラブに所属し楽しませていただいた。とてもすばらしいテニス仲間で今も交流が続いている。(皆、老けたがフォームは変わっていない。昔のままである)

現在、歯の治療中で、主治医はテニス仲間である。私の歯は歯周囲炎でボロボロ、一本一本と大事な歯が少なくなりつつある。「自前の歯で煎餅をボリボリ、バリバリ大きな音をたてて食べたいなー」と思いつつ入れ歯になっていくのか?
小学の頃、姉のお供に歯科へ行った事があった。歯科医が「ついでに君の歯も診てあげる」と診察し、「君の歯はとても丈夫でしっかりしている親に感謝しなさい」と言われた。今思うとこの事が災いしたか。29歳(医学部1年生)の頃、歯痛の為に2回目の歯医者へ、虫歯と思っていたが歯周囲炎の診断、歯周囲炎がなぜ起きるかも説明されず、抗生剤と鎮痛剤で軽快したのが悪かった。この事も災いとなった。その後も同じ症状がある毎に自分で同じ治療の繰り返し。とうとう今のグラグラ歯になってしまった。でも、残り少なくなりつつある歯にまだ未練があり、せっせと歯医者通いをしている。29歳の時に治療していただいた歯科医が、歯周囲炎とは何たるか、予防をどうせよとしっかり教えてくれてたらと一本抜く毎に悔やまれ、もう、4〜5回悔やんだろうか。

歯の治療中に右下顎犬歯の仮歯が一本抜けたことがあった。たったの一本であったが、口をあけるたびに皆に笑われた。いい気はしなかったが周囲に笑いを与えていると考えると我慢ができた。が、会話が出来ないのには困った。そこから空気が漏れてしゃべれない。思わずすきまを指で押さえてしゃべるとまた笑われてしまった。たったの一本でこの始末である。あって当たり前と思っていたが、なくなって初めて不自由を感じ、歯の大事さを痛感した。今はさし歯もはまり、会話も不自由なし。毎日、一本一本の歯に愛情をもって掃除している。テニス仲間の歯科医が言う事には「歯の矯正は見映えだけでなく、虫歯、歯周囲炎、顎関節症、うつ etcの予防にもつながり、又、歯のかみ合わせがいいとテニスも上達する」との事である。(テニスの上達の為、私も矯正を希望したら、君の歯はグラグラで矯正に耐えられないからと断られた)

昭和50年(1975年)北里大学職員テニスクラブ春合宿
向かって左端の木のラケットを持つヒゲ男が著者



 

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