沖縄県医師会 メディネット大樹おきなわ。
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■随筆

ちょっぴり内省的になる
透析当番の日に

(医)敬愛会中頭病院 腎臓、透析 桑 江 紀 子

医者をしていると目の前の患者さんが自分の人生のtop priorityをしめていて、自分を振り返る機会がないのが、殆どであるが、時折、古い記憶がよみがえり、自分が自分本来のところへ?かえっていくようなことは、誰にでもあるに違いない。

最近の朝日新聞の文芸欄で神谷美恵子の本がみすず書房から再出版されるという記事を目にした。なつかしい名前であった。若かりし頃、大変心酔していた。いまでは毎日の仕事におわれて思い出すこともなかった。

先日ある会合で久しぶりに、同期のHDrに会った。「桑江さんに貸してもらって、まだ返してない本がありますよ」という、何の本であったか、もう忘れてしまったが、彼は、学生時代に講義室の一番前の机隣によく座っていた。当時バドミントンの選手で、穏やかで性格のいい人であった。彼もわたしも本が好きで、学生時代、ときどき本の貸し借りをしていた。彼は現在精神科を生業としている。人柄の良さは相も変わらず、少し太めになっていたのが違う点であった。

精神科は当時、わたしの第一志望であった。神谷美恵子さんの『生きがいについて』に出会ったことがその動機であった。白い表紙を開けると、「亡き父に捧ぐ」と書かれたその文がまず印象的であった。“何かがこの本にはある”と直感的に思った。(本に関してはわたしは自分の直感を信じうると勝手に思っている)そうして、全編をつらぬく、深い洞察と考証。何のおごりも気取りもない、鋭い知性と人間に対する深い愛情に裏打ちされたその文章。この人は本物だ、本質に迫っていると思ったのを思い出す、それはみすず書房からの出版であった。その後入手した全集には日記、随筆、書簡、その他、研究についての文章も収められていた。

彼女は1914年生まれ、終戦直後文部大臣であった前田多門氏の娘で、帰国子女であった。“フランス語で考えたものを英語で表現する”ような人であった。津田塾在学中に、結核に罹患する。2年ちかく、ただ一人、家族ともはなれて、静養する。その間に、もう死ぬかもしれないのだからと古典から始めて、ギリシャ語を独学、それもマスターする。その後結核がなおり、コロンビア大学卒業後、専門を変更、東京女子医専へ入学した。一番で卒業したのち、東大の医局につとめ、のちに青島で、らい患者とかかわるようになる。戦後はその語学力をかわれ、しごとの傍ら、GHQの通訳もつとめる。その間、阪大の神谷氏と結婚、子供を育てながら阪大で研究も続けたが、神戸女学院大学、津田塾大学教授も勤めた。1979年他界した。類稀なる才能と品性の人であったという。

学生時代の精神科の授業及びポリクリは刺激的で、ワクワクした。人の脳と心について考えることは大変興味深かった。精神科医になるものと思いこんでいたが、わたしをもっともよく知る人が、「ミイラとりがミイラになりかねない」とわたしの神経の弱さ?を心配して、普通の人たちに接して貢献したほうがいい、内科にしなさいよと大変適切な助言をしてくれたことから、最後まで未練を残しつつ、精神科をあきらめた。今ではその助言は正しかったと思っている、たぶん、精神科をやっていたら、今頃、患者の苦しみをわたしは自分に重ねて、時折、うつ状態におちいっていたかもしれない。

卒後は自分の大学に残るのが普通だが、卒後の研修は神谷さんが通っていたという東京女子医大病院にした。対外的には、東京で勉強したいからとか、腎臓をやりたいから、『腎と透析』にいつも湯村和子先生の論文がのっていてあこがれている、とかいくつかの理由を挙げて人には説明していたが、本当のところは、ただ「神谷さんがいたところ」だから、という至極単純な理由からであった。そこにいけば、神谷さんのspiritの片りんを発見できるかもしれない、等という未熟な発想とやまない憧れとがこころのなかに同居していた。

女子医大には当然のことながら、わたしの期待する「神谷さんの精神」はなかった。それは神谷さん固有の資質であって、大学という組織がつくりだしたものではないから。だが、大変運のよいことに(なぜかわたしはこの類の運にはめぐまれている:ニューエイジによれば、偶然ではなく、coincidence:共時性というらしい)神谷さんについての情報をその研修時代に得たのだ。

ある日の当直のとき、先輩が「00号室の患者さん、以前ここの女性の教授であった人よ。頻回コールで、たいしたことでなくても呼ばれることがある」こういった。70代くらいの患者だという。とっさに頭をよぎったのは、その年代のひとなら、「神谷さん」をしっているかもしれない、という考えであった。その夜、わたしは嬉々として当直業務につき、「頻回コール」をひそかに心待ちにしていた。11時ごろ、はたして、コールがあった。個室へはいると一人の夫人が横になっている。眠れないので眠剤をくれという。脳梗塞の後遺症があって寝たきりの状態であった。「あの、先生は、神谷さん、神谷美恵子さんをご存知でいらっしゃいますか?」声は高ぶり、心臓は期待でドキドキした。ぜひ、今、ききたい、きかなくてはという、切羽詰まった心境であった。

その人は目をとじたまま答えた。「神谷さん、ああ、知ってますよ。もう亡くなられたけどね。」「どんな人でした?」「とてもいい人でしたよ、キリスト教的なものの考えかたが強いところもありましたが、そこら辺は、私とは違う考えでしたが、とてもいい人でした」。

眠剤に何を処方したか、ちっともおぼえていない(リスミー?だったかな)。しかし、この時のやり取りと、この言葉を聴いたときの感動は今でも、まざまざと思い出すことができる。神谷さんはその文章そのままの人だったんだ、生きていたころの神谷さんには一度もあえなかったけれども。わたしは、こうして神谷さんに関する生き証人の言葉をきくことができた、と。

2002年に、映画でバージニアウルフを含む3人の女性のストーリーが上映された(The Hours)。医学的に学問的に?そう鑑賞に値するものではなく、神谷さんとは何の関係もなかったが、神谷さんが「バージニアウルフ研究」をしていたが故に、わたしは3度もその映画をみにいった。バージニアウルフはイギリスの作家で、『灯台へ』等、秀逸な作品を書いたが、心の病におかされていて最後には自殺を遂げてしまう。神谷さんの分析によればバージニアの小説のなかには病によるとおもわれる想像力の飛躍する部分があるとのことであった。創造力と精神病との関連性、そのことに、神谷さんは終生、学問的興味を抱いていたという。

あの貴重な女子医大病院での「当直の日」から、わたしの時もだいぶ過ぎた。研修も終了した、資格も取った、アメリカもいった、等々、いいことばかりでもなく、いろいろあった。今では、出発地点とだいぶ違うところにいるような気もするけれど、自分の原点はかわっていないだろう。

現在、楽しかったアメリカ留学より帰って5ヶ月め、ちょっぴり、内省的になる、透析当番の日、である。

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