沖縄県医師会 メディネット大樹おきなわ。
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■表彰

第2回沖縄平和賞をAMDAにいただいて

AMDA沖縄支部長(沖縄セントラル病院長) 大 仲 良 一


私の医療奉仕活動の原点


多感な年頃の想い出

今日、私たちは非常に変化の激しい世界に生きています。

地球の裏側どんなに遠くで起こった出来事でも、瞬時にして知ることができます。マスメディアを介して目の当たりにする自然の驚異、大震災、洪水による被災の状況、一方では複雑な要因によって発生する戦争、地域紛争、暴力の真っ只中で苦しみ逃げ惑う難民の姿、エイズをはじめとする諸々の伝染性疾患や食料、飢餓で死に直面している人々の姿を見るにつけ、自らの幼い頃の生活に照らし合わせ、良きにつけ悪しきにつけ今昔の感を深くするものがあります。

当時の国民学校3年生の時に、熊本県に母弟と共に疎開し食料不足の中、畦道で芹の葉を、蕗やぜんまいの山菜を摘み、有明海の貝を掘っては飢えを凌いだものでした。

6年生の時、戦争ですべてが灰燼に帰してしまった沖縄へ帰郷。横殴りの雨が容赦なく吹き込む茅葺きの校舎は、台風の度に倒壊し、その都度生徒や父母は校舎補修の為に茅苅作業に駆り出されものであります。教材は先生方の手作りガリ版刷で琉球歴史の時間があり、音楽の時間はアメリカやイギリス国家を原語で、その意味を解さないまま歌わされたものであります。

夕方、放課後の子供たちの日課は何処の家庭でも共同井戸から、ドラム缶を満杯にするまでの水汲み作業でありました。今テレビの映像に映し出される紛争被災地難民の子供たちの姿が幼い頃の我が事のように思い出され、心が痛む思いが致します。登下校の往き返りに、野良仕事手伝いの帰りに、折りから通りがかる米軍のジープやトラックの兵士に手を差し出し“ギブミーキャンディ”“ギブミーガム”と叫んだ我が身の切ない姿が、走馬灯のように思い出され、思わず涙が滲んでくるのを覚えます。

発展途上国の貧民街を廻っていると窄らしい身なりの裸足の子供たちが、物乞いでついて離れない、今、安全な水を得られない人々が世界中で10億人もいます。汚れた飲料水と非衛生的な設備のために毎日6,000人の子供たちが死亡しています。発展途上国の疾病の8%は汚染水によるものです。そして例にもれず子供たちが最大の被害者です。世界のどこかで子供が8秒に1人の割合で、水に起因する病気で死亡している現実から我々先進国の人々、就中医療人は目を背けることは許されません。

出会いと転機

さて、中学、高校の多感な時期を沖縄で過ごしてきた訳でありますが、小生の父は獣医でしたが終戦後の沖縄は家畜類も壊滅状態で本職の手腕を発揮する機会は少なかったようです。やがて例のガリオア資金援助によって米国から大動物の移入が始まり、牛、豚、山羊等の予防接種、繁殖、疾病治療等で昼夜を問わず多忙の日々を迎えました。米国の牧場から直接贈られてきた野生同様の馬の調教で苦労し、やっとの思いで荷馬車を引かせ、また牛や豚の出産のために夜半にも度々往診を依頼され、懐中電灯を片手に何キロもの道程を自転車で出かけていく父の姿、獣医師としての使命感と、人間と動物の距りのない生命への畏敬と尊厳を身をもって教えて下さった父の生き様の感化を受けて、小生も獣医師としての道を歩むべく上京いたしました。

東京での大学生活、或る日のこと、新宿の図書館でAlbert Schweizer博士の著作集に接する機会がありました。博士の名声については大方の医師会員にはすでにご案内のことと存じますが、哲学者・神学者・医師であり世界的なバッハ研究者で、パイプオルガン演奏者としても高名を博しノーベル平和賞を受章された方であります。

博士は1913年フランス領赤道アフリカ、ガボン共和国にあるランバルネ・オゴエ河畔にあるLambarene病院において、1965年当地で没するまで、アフリカで最も原始的な条件のもとで、深夜まで外科手術を行い、ハンセン氏病をはじめ多くの熱帯病と戦い現地の黒人達のために一生を捧げました。

飢餓、悪疫、洪水に加え、支援者の不足等で経営に困難な一時期もありましたが、病院創立50周年の頃には、博士の経営手腕もさることながら28ヶ国から白人30人・非白人30人の医師、看護師、医療助手が支援活動を行い、現在のNGOの先駈けを既に形づくっていました。

Schweizer博士の著述を読破して、小生の人生観に大きな転機が訪れました。それは当初上京の折りには獣医師を目指していたものが、「病める人々のために」願わくば博士のような医療活動を…、と新たな道を模索する端緒になりました。東京の大学を中退し、九州の医学部のある大学への再挑戦でした。

幸運にもその扉は開かれ愈々基礎課程から臨床講義へと進んだ或る日のこと、外科学の教授から彼のSchweizer博士の話を聞く機会が訪れました。

恩師脇坂教授は、数度に亘ってアフリカの奥地ランバルネに赴きSchweizer博士のもとで奉仕活動をしてこられた医師の一人であることを知り、人生の巡り合わせの不思議な機微を痛感したところであります。

時にふれ、折りにふれSchweizer博士の医療活動の原点、即ち医師は神に仕える下僕のような気持ちで常に患者さんに接しなくてはならない。「治療即奉仕」が基本的な理念であることを口癖のように悟されたものであります。

このような恩師の薫陶よろしきを得て、小生の医療活動の基本的な理念が構築され、狭義の地域医療はもとより、国際医療奉仕活動がスタートしたと申しても決して過言ではありません。

昭和38年、学生時代から八重山西表島での医療ボランティア活動や、慶良間諸島での繰り船を乗り継いでのフィラリア調査が小生の奉仕活動の発端であり、入局後の離島医療、7,200人の町民の生命を一人で預かる与論島での体験は誠に貴重なものでありました。早朝から多くの患者さんが診療開始を待ち、連日200人余の外来診療、手術、深夜に及ぶ往診の数々。

インターン時代や大学からの関連病院出向先での各科研修の成果を如何なく発揮できる良い機会で、頭から爪先までのすべての疾患を診ざるを得ない境遇におかれ、特に待ったなしのお産では微弱陣痛で母子共に生命の危険があると、産婆さんに付添われ夜半に担ぎ込まれ、帝王切開で女児を無事取り上げた瞬間の感動は、一生忘れることのできない思い出となりました。後日成長した小学生とその母親が、小生の勤務先までわざわざ訪ねて下さり、十数年後にはその娘は二児の母親となり家族共々幸せな日々を送っている由で、医者冥利につきるものであります。

離島での医療活動は、小生の生涯のうちで最も充実した日々であり、若い頃の苦労の蓄積こそが、その後の人生で挑戦してみると出来ることが沢山あることを身をもって知り得ました。




 

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