沖縄県医師会 メディネット大樹おきなわ。
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■随筆
残雪期富士登山
第5章

琉球大学医学部附属病院 高気圧治療部
井 上   治
井 上  治 氏

「尻セード」は楽しいけど

アイゼンを締め直し、午後2時ジャストに下山を開始した。少し夏道を下りると我々が登って来る時、左手の雪渓をアイゼンを履いた人達が1人2人と緩んだ雪を踵から踏み込んで真っ直ぐに下りて来ていたが、まず私が雪渓に出て雪質とアイゼンの効き具合を確かめてから「ピッケルに頼らず足をしっかり踏み込むんだ」と下り始めた。

始めは、かなり急峻で足を滑らすと一瞬に持って行かれそうだったが、2〜300mも下ると40度位の勾配となり、尻セードのトレースも見られるので私が「スピードが付く前に直ぐ止めるんだぞ」っと尻餅を付いた格好で滑り出し、直ぐ山側に体を向けてピッケルで制動してみると簡単に止まり、「やってみるか?」と言うなり妻も尻セードを始めた。慣れるとスリルとスピード感があり、なによりもあの登りを考えたら楽賃で、傾斜が緩くなると滑る距離も長くなり、妻も50mもピッケルで制動しながら滑れるようになったが、私の尻はビショビショになった。

ずーっと先を行く数人の後を追って行くと夏道から右の雪渓にそれてしまったようで冷んやりしたガス(山霧)が出てきて人も見えなくなり不安になって来た。

かなり先に鳥居がルートを示すかのように1つ2つと見え、どうも右(東)に逸れて行くようでこれが佐藤小屋で言っていた吉田口の下山道で「落石があるので行かない方がいい」と言うことかと地図を広げたが、信用しなくなっている妻が「こんなとこ登って来てないし今の内に戻らないと」と左側を指差し、よく見ると遠くに標識があるようで、そこまで膝まで食い込む雪を掻き分けて行くとさらに左が本道のようで1人分の踏み跡もあり、斜面を大きくトラバースすると8合目小屋の前にたどり着いた。

後で分かったが、あのまま下っていたら須走口登山道から御殿場に下りており、下山途中で後ろから来た佐藤小屋に居た人が、われわれが雪渓をどんどん下って逸れて行くので心配して見ていたそうだった。

アイゼンを外して夏道を下り始めたが残雪と岩が露出している所が混在し、なぜか私だけがよく滑って転び、尻は乾き始めていたがまた脇の雪渓に出て尻セードで下り、雪に埋もれた小屋の庇を踏み抜きそうになったりした。

雪が無くなった山道を無言で延々と下るのは辛かったが、下りだけは速かった妻もかなり消耗しており、下山する人に追い越されながら金網の土砂崩れ止めに護られたジグザク道に出て、遅れがちな妻を振り向く度に足を滑らしながら朝の避難所まで下って来た。

登って来た道が分かれており、誤って下りると暗くなってしまうので困っていると、やはり佐藤小屋の従業員の男性が下りて来て「こっちですよ」と言ってくれたが直ぐ先に消えてしまい、樹林帯の下りも「小屋はまだ」と何回も言われながら薄暗くなりかけた午後6時少し前に懐かしい佐藤小屋に戻って来た。

ほとんど12時間も行動していた訳で、外でタバコを吹かしていた眼光鋭い男性に「時間かかりすぎだよ」と言われたが「内のが」と妻に目を移すと「仕方ないかな」と言う顔になった。

 楽しいかな尻セード
楽しいかな尻セード
佐藤小屋の強者たち

小屋の中には昨日からの人が10人ほど残っており、湯気が上がる大釜の周りで暖をとりながらタバコを吹かし今日の山談義の最中で、夕食の準備に忙しい主人も温かく迎えてくれ、帰るべき所に帰ってきた思いで登山靴から雪と泥を払って棚に納め、2階の小部屋にリュックを引き上げた。

風呂に未練があるのは「ほんもの」ではないが、羊毛の下着を脱いで新しい綿の下着に取り替えていると、我々の帰りを待っていたかのように下から「食事できましたよ」と声がかかった。

今日はそのまま下りた人も多く、1つのテーブルを髪が薄くなったりゴマ塩の私世代が囲み、ことこと煮上がった鍋を突っついていた。室温でも冷えてる缶ビールを2人分頼み、妻が取り皿に鍋から具を取って近くの人に回し始めると若主人がわれわれの傍に座り、「雪があってもズックで登る人もいて、この間なんか頂上付近で降りれなくなったと携帯で電話があって、内の若いのが登って行ったらと呼ばなかったと言われたんですよ」と顔は笑っていた。

スキンヘッドだが血色の良い人は、数年前に「富士ランニング登山」に参加し、「ランニングシャツに短パン姿で上がったが、頸から上は血が来てるのに手足は蒼白になってひどい水膨れができた」とまだまだ青年だった。「どんどんやって下さい」と居候という元府警の奥さんが皿に盛られた豆腐や豚肉を鍋に入れ、地酒の一升瓶も回ってきて妻の茶碗にもついでいると「御主人はタバコをしないのに奥さんはお好きなようですね」と言ってくれる人もいて「もっとしかってやって下さいな! 家のゴミを出すのは私の仕事になってるものだから近所の旦那衆から睨まれてるんですよ」と言ってやった。

「雪のある富士山は大変だったでしょう」と客の中では紅一点の妻に少しは関心があるようで、「モンブランに登る練習みないなものですよ」と言ってしまったが、また例の人に睨まれてしまった。「急な雪渓を下りるときアイゼンを着けた靴は雪面にどう踏み込むのがいいか」と酒が入って血色が良くなった人が白髪だが同年齢の人に質問し、「雪面にアイゼンを平衡に当てるのが登山技術うんぬん…。」と本格派の議論になり、登山学校を開いている「直登派」らしく富士山の大沢を真っ直ぐに頂上まで登るそうで「下りるときは経験と度胸だけだね」と言いながら「滑落した仲間もいたけど可哀想にピッケルを蒼氷に弾き返されて下まで落ちてったけどその時の声(悲鳴)は忘れられないね」と想い出していた。

富士山愛好会のような佐藤小屋の面々
富士山愛好会のような佐藤小屋の面々

若主人が「私は4代目なのですが、子供のころから親父についてよく落ちた人を捜しに行きましたよ」「靴が落ちてたらその中に足が残ってたりして。屍体が引き上げられたら頭は割れて中身が無くなって全身が骨折してるのでゴム人形みたいに手足が明後日の方向に向いてるんですよ」と頭の上で腕を捻ってみせ、「地元の警察がこの小屋で医者を呼んで解剖までやってたんですよ」ととても酒の肴になる話ではなかった。昔は(私の若かった頃でもあるが)、冬はこの佐藤小屋だけ開いているので外までテントが溢れ、先代に薪を投げつけられた人もこの中に居たとのことで、戦後の混乱期から高度成長期の若者の多くが青春を発散するために山を目指したのが第1次登山ブームであった。そのベビーブーム世代(数が多いので団塊の世代とも言われる)が戦後50余年経った今、仕事一筋だった人生に余裕が出来、子供の独立と共に山に戻って来たのが第2次登山ブームではないだろうか。

直登の話に戻るが、私が学生の頃、春先に八ヶ岳の赤岳を緩斜面の北側から登り、吹雪で2日間テントから出られず、寒さで体の全ての筋肉が震えて一睡も出来ず、降り積もった雪を漕ぎながら樹林帯を彷徨ったがやっと赤岳の尾根に辿り着き、雪庇を踏み抜かないよう下を見ると赤岳温泉の屋根が小さく見え、そこから真っ直ぐ尾根に上がって来ている誰かのトレースがあるではないか!

尾根から直登の足跡を下りようとするが、まさに消防車から垂直に立てられた梯子を背中にして手も使わないで降りるような恐怖感があり、しかも数百メートルも真っ逆様に下っており、格好悪かったが雪面に顔と胸を向け、下を見ないようにピッケルを雪壁に差込ながら登るようにして降りたことを思い出した。

話は尽きないようでわれわれは支払いを済ませて2階に上がったが、眠りに付くまで下から笑い声が時折聞こえてきた(参考までに1泊5,000円、1食1,000円で地酒や馬刺の差し入れまであった!)。富士登山の興奮が抜けきらないのか熟睡出来ないまま朝を迎え、小屋のスリッパで外に出ると寒くはなかったが、お日様は雲に隠れ、富士山も中腹までしか見られず、トイレを済ますと下山のパッキングを始めた。玄関では朝食をする人も居たが、われわれのように馬返しからの往路を下山する人はいないようで「昔は10時間もラッセル(深い雪を掻き分けて登ること)してここまで来たこともあったがな」と居候氏も長い登山人生の持ち主で、若主人にも「撮った写真などを送りたいので」と名刺を交換し、「沖縄に来ることがあったらわれわれの海外登山のビデオをお見せしますよ」と言って別れを惜しんだ。

日本にも富士山というほぼ4,000m級の山があることを誇りに思い、5月にしては雪が少なく物足りなかったが妻には積雪期登山の体験が出来、希薄な空気にもめげず登頂を極め、噴火口に驚愕し、滑落もせずに無事に下山できたことを朝靄の富士に向かって感謝した。富士山は昔より神聖な山として、あるいはその優雅さから、時には国の象徴として万民に愛され、一夏15万人の登山者を迎える庶民の山であるが、積雪期には登山家が命を賭けて挑戦する最も厳しい山でもあり、「富士に始まり富士に終わる」人生と共に歩む山でもあった。
(完)


 

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