<随筆>

医生教習所の碑を尋ねて


長田小児科 長田紀春

(1)西洋医学の始り
 沖縄が琉球処分で琉球藩から沖縄県になったのは明治12年であるが,その3年前に薩摩から来た軍医の多納が琉球の島民に西洋医学を用いて医療を始めた。多納は蘭医ポンペの門人の藤田圭甫の弟子であり,琉球から藤田に弟子入りをした仲地紀照とは兄弟弟子になるのである。紀照は多納軍医の補佐役として住民の医療に活躍したと云われる。琉球藩より沖縄県になった時に内務省出張所医局は沖縄県医局となったが,明治18年に沖縄県医院と改名して医学講習所を設け学生を募集した。この講習所が沖縄に於ける始めての医師養成の学校であり,西洋医学教育の出発点となった。入学者は12名だったと云う。
 明治22年沖縄県医院を沖縄県病院と改名し,付属の医学講習所を医生教習所と命名した。沖縄では300年にわたり漢方医療が施用されていたが,医生教習所で始めて西洋医学を学ぶ学生を養成し,近代医学発展の基礎を築いたのである。
 同教習所は明治45年に廃校となったが,創設以来在籍者500名に及び,その中より172名の医師を送り出した。
 教習所出身の医師は県民の医療に多大の貢献をした。例えば外科医として活躍した仲地紀晃・浜松哲雄,沖縄で初めての小児科専門医の比嘉賀善,眼科の饒平名紀順,結核にサナトリュームを導入した金城清松等々,多才の方々が輩出した。又地方で開業した方々は,その町村の地域医療に尽力した。
 その中から政治や経済面にも活躍する者が出て,沖縄の発展に広く寄与したと云う。昭和3年に年齢の関係で数少なくなった同教習所出身の医師が集まり,教習所発祥の次第を石に彫り,医生教習所記念碑として波上宮の境内に建立した。
 碩学東恩納寛淳の花撰と医師山城正心の麗筆を得て同年11月に完成した。碑は今次沖縄戦の戦火に被災して傷ついたが戦後に同所出身の有志により修復が行われたと云う。

(2)碑を尋ねて
 歴史の重みを感じさせるこの碑を,是非拝見し度いと思い,私は或る晴れた日の午後に,波上宮に出掛けた。
 境内の入口で車を下りて,褐色の大鳥居を仰ぎつつ石の階段を上がると,左側の瀟洒な歌碑が先ず目につく。
 釈超空の,那覇の江にはらめきすぐる夕立は……の碑である。それより少し上には灯籠奉納の大きな碑があり,その傍の岩上に山城正忠の,ものみなよろしわが住める那覇……の歌碑が横向に建っている。更に石段を上ると,いづみ写真館の手前に背の高い淡黒色の碑が,広場に向かって屹立している。これが医生教習所記念碑である。
 前に立って2.77メートルの安山岩の風格ある碑面を仰ぎ見ると,年月の烈しい潮風に晒されて文字が欠け落ち,薄れて読み難い。時間を掛けて逐字判読し,裏面の教習所出身の医師の名を辿って佇むと,新しく学んだ西洋医学を駆使して病に苦しむ沖縄の同胞を助けようとし,眼を輝かせ胸を膨らませていた当時の先達の面影が躍如として目の前に蘇って来るのだった。

(3)後記
 東恩納寛惇先生著の童景集を読むと,医院学校と云う項目がある。最初は医生教習所を,先生独特の批判や諧謔を混ぜつつ世相に触れて記されているが,後半になると幕末の蕃所取調所が後に帝国大学の前身になった例を挙げて,沖縄に於ける教習所の意義と功績を多大に評価しておられる。
 そして碑を建立する事に賛同されて碑文を自ら立案され,波上ノ清嵐永ク其芳ヲ伝へ……と撰されているが,その碑を縁の無い波上に建てる事に反対し,もっと関わり深い場所を希望すると述べておられる。
 碑を拝見して私はその重要さを識り,那覇市医師会長及び諸賢の方々に相談を申し上げ,
1.碑の損傷が次第に酷くなる恐れがあり,早目に修復する事
2.碑を県立病院のあった松山公園或いは他の縁籍のある場所へ移転させる事も検討
 等の貴重な御意見を頂戴した。
 それを参考にしてこれから計画を立てる段階であるが,修理技術の工夫や費用の問題等,時間をかけての対応が必要である。
 医師会及び諸先生の御支援をお願いする次第である。


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