<報告>

高嶺徳明の補唇術に関する考察


琉球大学名誉教授 大鶴正満 


前言
 平成5年12月1日,琉球大学医学部構内がじゅまる会館前の広場に高嶺徳明顕彰碑(図1)が建立された。沖縄県医師会の寄贈によるもので,特に医学部学生の教育上きわめて有意義なことであった。300余年前,高嶺徳明(魏士哲)により王世孫ほか5名に対して中国伝来の補唇(兎唇)の手術が首尾よく実施され,しかもそれは全身麻酔のもとで行われたと推定されている。麻酔薬使用については今日まで諸家により種々考証され,いわゆる傍証とされる多くの根拠は得られているが,まだゆるぎない確証とするまでには至っていないとするのが現状と判断される 1,2,3)。

 この沖縄県における医学史上画期的な出来事について,その更なる立証のために平成7年7月,県医師会では各方面の専門家が協力する高嶺徳明業績研究委員会が発足した。そして計らずも筆者が,その委員長の責を負うことになった。ひきつづき同委員会で検討が進められているが,本稿では主として筆者がその後の文献,資料類ももとに考証し得た知見を現段階でまとめてみた。医家各位のご参考となれば幸いである。


図1 高嶺徳明顕彰碑
   琉大医学部内「森の広場」
   (平成7年12月25日)

徳明の業績,その論考の経緯
 徳明は元禄2年(1689)5月,対岸の福州から琉球へ帰国し,その年の8月から11月にかけて王世孫ほか5名について補唇術を行った。これらのことを魏姓家譜(1730)4,5)(図2,3)から発掘したのは大正12年 (1923)以来,真境名安興6),東恩納寛惇7),金城清松8,9),国吉有慶10)らの沖縄郷土史家によるものである。それは東恩納,金城,佐藤八郎11)らによると全身麻酔下で実施され,用いた麻酔薬は中国後漢から三国時代の華佗の麻沸散と同じものであろうとした。このことに関連しては,次に述べるように多くの研究者により,かなりの知見が積まれてきた。

 徳明は久米村の高嶺家(琉球王より36姓を補い魏姓を賜わる)の養子となり,すでに11歳にして中国の福州へ渡り中国語に精通するようになった。当時の琉球王尚貞の孫(尚純の子)尚益は生来の兎(欠)唇で,王位継承ともからみ,国の大きな問題になっていた。たまたま進貢使の通事として1688年,徳明が福州へ渡った時,琉球館の近くに祖先伝来の補唇の秘法で諸国をまわっている黄会友(福建省汀州府上杭県の住人)という名医が来ていることが分かり,使人らの間で同医師の秘法を王世孫に試みる相談がなされ,その適材として選ばれた。徳明は一生の奉公としてその大役を引き受け,同医師もついに彼の誠意に動かされ,また異邦人ということで 20日間にわたり黄家の別館で,昼夜をわかたず伝授した。そして秘伝書1巻も譲り受けることができた。

 翌1689年,帰国した徳明は唐物を取り扱う五主役の大嶺詮雄12)の協力を得て万全の準備を整え,5名の手術ののち尚益の治療に当り成功した。このことは当時の薩摩藩在番奉行の村尾源左衛門の耳に入り,翌年,その要請により奉行所付の医師,伊佐敷道與に伝授され,それぞれに秘伝書1巻も贈られた。道與は若くして京都で医術を学び,琉球から鹿児島へ帰ってからも間もなく元禄5年 (1692)京都へ行き1年余滞在した(後述)。その後かなり経て60歳をこえた徳明は王命により典医,豊氏元達,桑氏良心の両名へも伝授した。元達は尚敬(尚益23歳の時の子)時代の名医で,金城元順の師に当る。その後,元順家は泊の松氏一門として多くの医者を輩出した。

 文化元年(1804),華岡青洲13,14)が自家創案の全身麻酔薬である麻沸湯または通仙散(マンダラゲ,トリカブトを主薬とする)を用いて乳がん手術を行ったことはよく知られる。徳明による補唇術が諸氏の推定にみられるように,すでに同様の全身麻酔のもとで行われていたとすると,それは青洲よりも115年前のことであり,沖縄の医学史上画期的なことと申すことができる。なお上記の道與らへの秘伝は京都方面へ伝えられ,青洲の麻酔法への影響の可能性も指摘されている7,15,16)(後述)。

 徳明の秘伝書は上述のように鹿児島へ渡ったのであるが,残念ながら沖縄,本土においても今日発見されていない。昭和61年,鹿児島県川内市歴史資料館で薩摩藩医の子孫から寄贈された文書の中に徳明の手術を伝える「神仙秘法」(道與の弟子と思われる是枝安貞,永井圓長による書写,1749)17)(図4)なる 1巻が見つかった1,15,18,19,20)。しかし,そこに書かれている薬物は琥珀,珍珠,血蝎,赤石脂,氷片,龍骨,児茶,乳香,没薬,硼砂の10種類からなる傷口に塗布する止血,止痛,消炎効果のあるものであった。なお本秘法により藩主島津光久の孫に当る島津久幸の嫡男(清久)が手術を受けたことも記されている。

 平成2年11月,日中医学国際交流学術会議21)が開催され,福建省での黄会友の足跡調査なども行われた。

徳明の手術の内容についての考察
 徳明が全身麻酔のもとで手術を行ったとする根拠について,諸家の知見を紹介しながら現段階での筆者の見解を述べてみたい。

文献,伝承的な立場
 東恩納,金城らは中国における伝統的な麻酔術の流れ,高嶺家に伝わる魏姓家譜をもとに,徳明の手術は華佗の麻沸散に由来する,恐らく曼陀羅花(マンダラゲ),草烏頭(ソウウズ)を主薬とするものと考えた。中国では「神農が百草を嘗め一日に七十毒に出会った」の故事にみられるように,大昔から手術と麻酔についての伝説や記述がある。すでに春秋,戦国時代に手術を伝える書物が知られ,西暦2世紀に華佗が出て麻沸散を開発し,酒でそれを飲ませ酔って知覚がなくなってから腹や背を割り積聚を取り出した後,縫合して神膏を塗ると4,5日後に創傷が癒合し,1月ぐらいで回復するとした。しかし麻沸散そのものの本態については今日不明のままであるとされている。

 その後も,中国では多くの医家により曼陀羅花,羊躑躅(ヨウテキチョク,ツツジ),大麻,烏頭・附子(トリカブト),莨子,椒,天南星など多くの鎮痛,麻酔薬についての豊富な医術と経験が積まれた22)。骨折・脱臼の復位にさいしても古くから曼陀羅花,烏頭などが用いられてきた23)。なお中国では,およそ20年前ごろも全身麻酔に羊金花(マンダラゲ),烏頭などが手術にさいして使われていた24)。

 黄会友から徳明への秘法は,その核心的部分になるとなかなか伝授されなかった。徳明は会友の教示に当って手術法自体は理解されるのであるが,他にきわめて重要な部分が欠落していることを察知し,そのことについて誠意をもって懇願し,大金もつみ,伝授されたとされる。そのさい一世一伝ということで神前で互いに誓約を交わし,直接指導された。高嶺家には痛くないように手術したとする言い伝えがあるので,それは麻酔に関することを裏づけていると思われる。

 徳明が用いたとされる麻酔法について今日その確証的文書が得られていないのは,一世一伝の秘法であることのほか,その核心的部分が口伝とされたためとされる。20)一子相伝とされるものでも,療治に立ち会ったり,示説でなければ理解が困難であるとして核心的な部分が口伝とされる場合がある3)。元禄時代,京都で蘭・漢方の折衷を行なった伊良子道牛の孫に当たる光顕は欠唇について,その著の中で別に口伝があることを記し,しかもその大旨を得るものは門下生の中の2,3に止まるとした25)。なお,神仙秘法は徳明の秘伝書の一部を写したものとの指摘もある15)。

 日本本土では,凡そ400年前の天正から慶長のころ唇裂の治療は無麻酔の状態(例えば呪文を唱える)で行われたとされる。凡そ 300年前の元禄時代から唇裂手術の症例の増加がみられ,その背景には中国やヨーロッパから麻酔法の輸入などがあったためと考えられる26)。

医術,薬物的な立場
 徳明が伝授を受けた当時,もとより中国では伝統的方法により麻酔薬が使用されていた。本草綱目(1596),串雅内編27)(1743)などにマンダラゲ,トリカブト,ツツジ等が手術用の麻酔薬として記載されている。王世孫の補唇術にさいし,前以て5名の者に試行し,そのなりゆきを王府側は慎重に観察していた。これは未知のことの多かった麻酔薬の使用に対して,かなりの危惧が働いていたと考えられる。

 当時,11才の尚益に対して麻酔なしの補唇術が可能であったかどうかも考慮する必要がある。やはり何らかの鎮痛ないし麻酔薬が使用されたと考える方が妥当である2,28)。青洲門下の本間玄調は,麻沸湯は6,7歳以上に用い,5歳以下では人事不省におちいることがあるので,用いてはならないとした29)。

 次に使用したと考えられる麻酔薬について諸家の説を紹介したい。 

1.マンダラゲを主薬とする考え方
 魏姓家譜の中には,中国と琉球とでは地気すなわち気候風土が異なるので,その薬性すなわち薬効を調べることが必要であることが記されている。尚益ほか5名の手術が,徳明の帰国した3月後の8月以降で,翌年の薩摩藩医の道與への伝授も9月であった。

 これらのことから松木明知は,使用薬は琉球産のチョウセンアサガオ(マンダラゲ)から調製するために8月まで待たねばならなかったと判断した30)。中国の医書には麻酔の処方に重要な曼陀羅花は8月採取が薬効上最良であるとされ,琉球産物志(1771)31)にも8月開白花,釆花,9月釆実と記されている。チョウセンアサガオは熱帯アジア原産の1年生草で,江戸時代に日本各地で栽培されていた。花は麻酔作用が強く,漢方では他の生薬と配合して手術用麻酔薬として用いられた。種子,葉にも同様の作用がある。なお琉球産物志にトリカブトの記載はない。

2.ツツジを主薬とする考え方
 林鐘清(福州市医学科学研究所長)21),新垣敏雄・平良豊・新垣敏幸らによると当時の漢方麻酔法を考証するには,清時代の趙学敏:串雅内編を参考にすべきであるとし,徳明が使用したものは,その中にある換皮麻薬(羊躑躅,茉莉花根,当帰,菖蒲の水煎)であると考えた32)。麻沸散そのものが換皮麻薬であるという説もある24)。華岡青洲の同僚である中川修亭33)(1796),大江三谷48)(1826):麻 薬考に琉球由来と充分考えられる琉球津々志(リュウキュウツツジ)の記載が見られることは興味深い30,31)。

 これらのことから麻酔薬類の琉球経由,本土への伝来を関係づける考え方がある(後述)。中国で鬧羊花(ドウヨウカ)と称されるものはツツジ科の植物,羊躑躅の花序のことで,その名医別録として羊不食草,羊不吃草などが挙げられている。沖縄本島北部でも,山羊がツツジ(ケラマツツジ)を食べると酔うという伝承があり,その実例もみられる34)。最近,平良豊らは沖縄産ケラマツツジの鎮痛作用についてSD系ラットを用いて実験し,モルヒネに類似した効果を認めた(未発表)。

3.トリカブトを主薬とする考え方
 徳明の使用薬物について薬種類の琉球輸入や福州での購入の実態を調べ,麻酔にはトリカブト類を用いた可能性が大きいと筆者は考えた。

 中国と琉球の册封,朝貢関係は明初から清末まで凡そ500年間の長きにわたった35,36,37)。琉球国王が亡くなると,中国皇帝はその册封のため正副使を派遣し,琉球側はその謝恩のため明,清皇帝へ進貢使を送ることが中琉間の外交上の儀礼として行われた。このような両国の関係の中から,いわゆる冠船あるいは進貢貿易が定着し,徳明の時代には毎年,進・接貢船が往復していた38)。清代の冠船貿易で中国側からは糸織品,次いで薬品類が最も多かったようである39)。実は,両使節団一行は役得として下は水夫に至るまで商品をたずさえており,そのさい嵩ばらない薬品類が最適であったといわれる7)。

 琉球関係文書40),歴代宝案41),清代中琉関係档案選編42),冠船に付評価方日記43),琉球冠船記録44)など琉球,中国側の諸記録類を調べてみると,トリカブト類(川烏頭,草烏頭,附子)は対清貿易でかなり輸入されていた。しかし曼陀羅花,羊躑躅,閙羊花などは見当らない。「神仙秘法」の冒頭には10薬種からなる塗布薬の詳しい処方(月により少しづつ量が異なる)が記載されている。これらの薬種の中の7種(琥珀,血蝎,氷片,龍骨,児茶,乳香,硼砂)も冠船貿易の記録の中に見られる。かかる貿易は薩摩藩ひいては幕府の強い規制,支配のもとで行われていた。享和2年(1802),幕府は薬種類の輸入を厳禁する処置を取っているが,その後,中国の道光年間には上記の評価方日記に附子の輸入記録がみられる。琉球関係文書には元禄5年(1692)5月に他国への賣捌の儀沙汰に及ばずとして烏頭,当帰,川 など多くの薬種がみられることは興味深い。江戸時代,大坂の道修町は薬種など唐物市場としても繁盛していた。当時の漢方医の需要の一端を琉球経由のものがまかなっていたことも考えられる。

 徳明は薬品についての知識もある唐物を取り扱っていた五主役の大嶺詮雄に薬品の恐らく購入,調製,調合を手伝わせていた4,12)。魏姓家譜に薬品を買って帰るとあるように恐らく琉球では入手しにくいトリカブト,また上記の「神仙秘法」の薬種類は福州で購入して帰国したものと考えられる。前述の串稚内編にも,換皮麻薬と並び開刀麻薬「草烏,川烏,半夏,生南星,蟾酥,番木 ,白 ,牙 」(これらのうち番木 を除く全ても輸入記録にみられる),整骨麻薬「草鳥,当帰,白 」(すべて輸入記録にみられる)など局所あるいは全身麻酔の処方がみられる。

 これらのことから,徳明が使用したとされる麻酔薬はトリカブトを主薬とするものであると筆者は判断している。トリカブト類のカラトリカブトは中国原産で,日本では園芸用として広く栽培されている。オクトリカブトは北海道,東北,北陸の諸地方の山地に分布し,その塊根を附子(ブシ)または烏頭(ウズ)という。また中国産の川附子は原植物の栽培ならびに加工吟味がなされ,安全性が高いとされてきた。

付記
 前述のように,中国には古来,手術と麻酔に関する多くの伝承や記録があり,マンダラゲ,トリカブト,ツツジ等を主薬とするもので,それらの知識は医師の間にかなり広まっていたと思われる。古く華佗は先ず麻沸散で麻酔し,術後の縫合には神膏を塗ったという。これらのことから,「神仙秘法」の中に麻酔薬の記載がないのは,恐らく黄会友は麻酔法については昼夜孜孜二旬にわたり悉く伝授する間に奥義ではあるが口伝し,華佗の神膏の故事に習い前述の詳細な塗布薬「神仙秘法」を記したものを秘伝書として徳明に与えたものと筆者は目下考えている。

 前述のように,伊佐敷道与(1661-1730)は貞享3年(1686)京都へ行き井原道悦(1720没)に師事した。そして琉球から薩摩へ帰つてから間もなく元禄5年(1692)31歳で再び京都にのぼり北尾芳庵(1629-1698)の門に入り,1年余滞在した18)。芳庵は靈元天皇の侍医も勤め法印となり,瑞仙院の号を賜わり,その嗣の道孝も法眼となった45)。伊良子道牛46)(1671-1734)は,伊良子宗家の伝承によると長崎から帰つてから元禄9年(1696),山城伏見で開業するまで4,5年間は,京都右京の帷子ヶ辻で医業に従事していた由である。それで道与の京都滞在は道牛のそれと重なると考えられる。道牛は長崎でオランダ人,カスパルについて西洋医学を学び,漢蘭法の外科医として名声を博した。しかしカスパルは道牛の長崎滞在より30年も前の人であるので,恐らくその門人である河ロ良庵,あるいはその門に学んだといわれる45,46)。道牛の門人の中で最も有名であったのは大和見水(享保12年,1727入門,1780没)で,見立は見水晩年の養子であるが,華岡青洲が師事したのは,この見立(1827没)とされる。青洲(1760-1835)が生まれた時には道牛はすでに亡くなっており,見立は道牛の孫の光顕(1737-1799)を師とした。光顕は青洲より20歳余年長で,外科訓蒙図彙の著,刑死の解剖などで著名である45,46)。これらのことから,青洲は道牛の漢蘭法外科の流れをくみ,道与がもたらした中国麻酔の秘法も伊良子道牛・光顕,大和見水・見立,そして青洲へも伝えられた可能性はあり,少なくとも青洲は,そのことを知っていたと考えられる。興味あることとして,青洲口授の外科摘要の中に麻沸散(湯)の処方にマンダラゲ,トリカブトと共に琉球ツツジがみられる47)(図5)。また,大江三谷の麻薬考48)によると,伊良子氏方として欠唇などに際しての麻酔の4処方(整骨麻薬,草烏散,欠唇方,紅散子方)の前3方がトリカブト(草烏頭,川烏頭)を主薬とした全身あるいは局所麻酔であることは,道与が京都に伝えた秘伝の内容を示唆しているようである。

 徳明に補唇術を伝授した黄会友は福建省上杭県の出身で,福州市潭尾街で開業していたという。徳明は福州城外東南にあった琉球館に滞在中に,秘法の伝授を受けた。その秘法の内容を知るためには,関連する文献,伝承などの検証を含む現地調査が重要であることはいうまでもない2,49,50)。しかし一世一伝の秘法であったためか,かなり困難なようで,彼の足跡を追った福州,郷里での調査も緒についたところと思われる。

 琉球国内では,徳明の秘法は彼自身その家譜の中で元達,良心へ伝えた後,補唇の医法国中に広まると特記しており,彼の医法は秘伝的なわくをはなれて広く医家へ伝えられたと考えられる。それで沖縄県内の特に伝統医家の間に,伝承あるいは古文書類として残っている可能性がある。なお沖縄では琉球王国時代の貴重な歴史的資料の多くが,去る大戦により焼失あるいは散逸したといわれる。しかし難をのがれたものもあるはずで,関係古文書類,家伝などの発掘を期待したい51)。なお古くは補(欠)唇術は一般に身分の高い人以外はほとんど行なわれず,家名を重んじて秘匿される場合があることも発掘を困難にしていると考えられる。

むすび
 文化元年(1804)華岡青洲が自家創案の全身麻酔薬である麻沸湯または通仙散(マンダラゲ,トリカブトを主薬とする)を用いて乳がん手術を行ったことは余りにも有名である。それより100余年前,本稿で述べたように,高嶺徳明が沖縄において麻酔下で補唇術を行ったことは充分に考えられる。ここには,使用した麻酔薬について諸家の考証に自らの見解も加えながら,トリカブトを主薬とした可能性が大きいことを述べた。

 もとより,この沖縄における医学史上画期的な出来事については,更なる調査研究が必要である。さしあたり沖縄においては,それを示す古文書類,確実な伝承などの発掘が期待される。それは伝えられた鹿児島,更には京都方面で検証される可能性も大きいと思われる。また,その伝来のもとである中国福建省方面における現地調査が重要であることはいうまでもない。

 謝辞 高嶺宗家での貴重な資料のご提供,沖縄県医師会に設けられた高嶺徳明業績研究委員会の委員各位のご協力に深謝します。文献類のご寄贈をいただいた松木明知教授,関係古文書,文献類の蒐集に当たり多大のご援助をいただいた琉球大学附属図書館情報サービス課の各位,同医学部分館専門員・仲西盛秀氏に厚くお礼申し上げます。また古医書の閲覧について便宜をいただいた慶応大学北里記念医学図書館および武田科学振興財団杏雨書屋,また伊良子宗家の光孝氏のご協力に心から感謝します。

文献
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3)大鶴正満:高嶺徳明の補唇術についての一考察,沖縄県医師会報,305:24-29,1994。

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11)佐藤八郎:この人を忘れてはならない−高嶺徳明(魏志哲)のこと,鹿児島県医師会報,12-13,1972。

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19)原口泉:薩摩藩の外科手術,日本医科器械学会,1987。

20)佐藤八郎先生出版編集委員会:燃えては尽きず,一期一会,斯文堂,鹿児島,349頁,1990。

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29)本間玄調:瘍科秘録,四之上,天保8年(1837)。

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32)新垣敏雄,平良豊,新垣敏幸:士哲と青州と用麻薬,沖縄医学会雑誌,30(1):133-135,1993。

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35)小葉田淳:中世南島通交貿易史の研究(増補),本文588頁,1993。

36)新里恵二,田港朝昭,金城正篤:沖縄県の歴史,山川出版,東京,246頁,1972。

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38)宮田俊彦:琉球・清国交易史−二集「歴代宝案」の研究−,第一書房,202頁, 1984。

39)第3回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム:沖縄県教育委員会・中国第一歴史档案館,沖縄県公文書館,沖縄,1995。

40)東大資料編纂所:琉球関係文書,1-18,元禄5年(1692)の記録。

41)歴代宝案:冠船之時唐人持来品貨物録,1719。

42)清代中琉関係档案選編(1773):中国第一歴史档案館編,中華書局,1993。

43)冠船に付評価方日記,道光18,19年(1839),同治3,4,5年(1866)。

44)東大資料編纂所:琉球冠船記録,1-9,慶応2年(1866)。

45)京都府医師会医学史編纂室:京都の医学史,1432頁,昭和55年(1980)。

46)広瀬秀円(伊良子光義編):伊良子道牛伝,昭和4年(1929)。

47)華岡青洲(口授):外科摘要,嘉永2年(1849)。

48)大江三谷:外科秘薬考,−名麻薬考,文政9年(1826)。

49)平良豊,島袋勉,伊波寛,奥田佳朗,新垣敏雄:高嶺徳明の医術について−中国に於ける調査結果報告−,沖縄医学会雑誌,30(1):131-133,1993。

50)高良倉吉,田名真之,多和田真助ら:琉球のパイオニア,沖縄タイムス社,那覇,75頁,1993。

51)大鶴正満:お願い−高嶺徳明業績研究委員会,沖縄県医師会報,320:43-45,1995。


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