<随筆>

「最後の一人」は語る


前原医院 前原信勝 

 書き残しておきたい事。
   大宜見朝計先生を偲ぶ。

T 最後の人
 大方の会員諸兄は戦中,戦後出生の方々と思うと,半世紀前の話に余り興味がないと思う。そして沖縄戦直後,県民医療又医政の為に,文字通り粉骨砕身,公務員として努力なされた,故大宜見朝計先生を知っている方も少なくなっていると思う。

 大宜見先生は元々,首里の出で,現在「浦添医院」を開設しておられる大宜見肇先生の御尊父である。

 見出しに「最後の人」と書いてあるのは終戦直後,石川市(当時戦争避難民の一大集合地)に設立された,琉球政府の前身「沖縄諮詢会」「OKINAWA ADVICERY BOARD」の公衆衛生部で先生の部下として戦後処理に従事した医療人の中で現在現役として働いているのは私一人となった。その意味での「最後の人」である。

 今や本県の医療状況は,本土と何ら遜色のない状態で,日進月歩というより分進秒歩の医学の進歩に追随している頼もしい現状を見聞するにつけ,戦後沖縄の医療体制設立に渾身の努力をなされた大宜見先生は,医人として国を医した「大医」であった事を今更乍ら痛感している次第である。

 そこで私は現在私の師匠格にも当たる稲福全志先生が,戦後医療史に延々と健筆を振っておられるのに思いを致すと終戦直後,大宜見先生と御二人で,二人三脚の様に奮闘しておられたのを目のあたりに見ていた私は,稲福全志先生の医療史の始まる前,即ち南部地区に未だ砲煙の燻っていた頃,公衆衛生部(以後,公衛部と略す)の活動ぶりを書き残すべきと云う一種の義務感の為,筆を執る事にした。

U 私の事
 医師になって半世紀余りになる,化石の如き現役医師と云ってもよいが,東京渋谷の恵比寿で102才の高齢で未だ診療を行っておられる「寺田 廉」先生の様な大先輩がおられるので,生活信条たる生涯現役を全うする為,寺田先生の後塵を拝して精進している昨今である。

 昭和16年戦時中に医師になり,母校の内科教室でT.B.の勉強をしていた時,当時の学生は徴兵猶予の恩典に預かっていたが何れ軍務に服せねばならず,短期訓練で将校になる短期現役軍医志願を,学校の配属将校に強引にすすめられ受諾し,軍医候補生として広島歩兵11連隊に教育をうけ3ヶ月後任官。同時に北海道旭川の第7師団付を命ぜられ渡道。間もなく独ソ戦勃発により現在中国の東北部(旧満洲)に転じ,国境守備隊員として極寒と戦い警備についた。そして昭和19年7月私の属する部隊が,日本の敗色漸く濃くなった頃,南方転進になり予想だにしなかった「沖縄上陸」となって私は10年ぶりに戎衣を纏って帰郷した。実は私の一家は昭和12年首里山川より父の仕事の関係で一家を挙げて,東京港区麻布に転居。そしてもう沖縄とは縁が切れた状態だった所,突然の帰郷に驚喜した。同時に何かしら沖縄もいよいよ戦場になるかという不安感を抱いて上陸した。

 当時沖縄には球部隊(最高指導部)の下に「山兵団」「武兵団」「石兵団」と3ヶ師団の兵が駐屯していたが「武 兵団」が台湾に転じ「山兵団」と「石兵団」となり「山兵団」は南部「石兵団」は中部北部の守備を担当していた。

 昭和19年10月10日の大空襲前哨戦として,米軍の本土接近作戦は次々に成功し遂に昭和20年3月23日の大空襲を皮切りに沖縄本当への侵襲が始まり,日本軍の作戦の裏(陽動作戦)をかいて嘉手納上陸となった。時に昭和20年4月1日。そして「石兵団」を瞬く間に猛攻撃し1週間で中部地区の日本軍を制圧した。

 私は当時豊見城にいたが4月7日「石」部隊援護のため,中城北上原に降りしきる弾雨の中を約10時間行軍4月10日「石」部隊と交代し第一戦に立った。

 何分にも陸海,空からの米軍の攻撃には手も足も出ず瞬く間に戦死者がふえ,部隊はトーチカにひそんで敵対するしかなかった。

 その間私は大隊長と共に指揮班にいたが負傷者が続出したので,前線のタコ壺で抗戦していた友軍の間を駆け廻り,文字通り砲煙弾雨降りしきる中を,戦死者確認,重傷者の護送,救急処置と,衛生兵三人で対処した。

 戦場は奇しくも現在の予防医学協会のある所で,あの当時はチョコレート高地と云っていた。

 死屍累々,死山血河と凄惨な戦場を表現する言葉があるが,私は実際にこの状況を目撃し,そして地獄絵の如き戦場は,今も尚鮮烈に私の脳裏に焼きついている。(戦斗記は別冊)

 5月中旬,私の部隊は私が野戦病院に負傷者担送中に戦車攻撃をうけ全滅,私は止むなく豊見城の現在の海軍壕にあって陸海共用の野戦病院で負傷者の治療に当たっていた。そして6月1日,米軍那覇上陸で病院は全員南部に後退する事になり,私も重傷者担送中に6月7日敵の迫撃砲と艦砲により,両大腿部,胸部に重傷を負い衛生兵と沖縄出身の防衛隊員によって救助され「ひめゆりの塔」の近くの小さいガマで約3ヶ月,所謂 岩枕生活を送った。そして8月15日の終戦も知らず友軍の生存兵捜索隊によって救出され,収容所に担送された。文字通り,万死に一生を得た。私の連隊は2200余名中,生職者68名,軍医15名中,生存者3人であった。

 収容所から解放された私は,平良歯科の故平良進先生のおとりなしで大宜見先生の傘下たる公衛部に入った。その後,此中城村立安谷屋診療所長一年その後,沖縄中央病院で5ヶ年,その後大宜見先生の御奔走で昭和26年沖縄で万死に一生を得た私を待つ,東京麻布の両親の下に帰った。上京後直ちに「杏林大学」創立者 松田進勇博士の下で働き,その後日大細菌学教室入局,次に国立第一病院(現在の国立医療センター)「日本赤十字中央病院で研修を重ね,10ヶ年の東京生活に終止符を打ち又,大宜見先生のお勧めにより,帰郷,現在に到っている。先生こそ私の第二の人生の恩師であった。

V 大宜見先生の御業績
 大宜見先生は旧制福岡高校を終へ新潟医大に進まれた。奇しくも国語学者の仲宗根政善先生と県立一中,福岡高校と同級生で親友であられた。大宜見先生が医学,仲宗根先生が教育学で沖縄の再生に御努力なされた訳である。

 先生は富山県衛生技師より沖縄県衛生技師に転勤なされ,沖縄戦勃発前,出張の名目で本土に行った衛生課長の跡を継がれて課長の重職に就任されたそうである。

 戦後の公衛部には警察畑出身の池原喜清総務課長の下に旧県庁の職員の生残された方々がおられた。その中に東医大出身の白面温容の故金城順鼎先生がおられた。その他外間忠雄先生,歯科の平良進先生と私が加わっていた。又公衛部の幕舎には大宜見先生の旧知の天才詩人 池宮城稜宝先生が同居しておられた。

 大宜見先生は諮詢会の錚々たる部局長の知名士の中で一番若く,八面六臂の御活躍ぶりに志喜屋孝信先生の御信頼も厚かった。何分にもその方面の専門家は先生が第一人者であったからである。

 さて8月15日の終戦を知らず日本兵の敗残兵が時々発砲する事もあり,住民は一括して米軍保護下の集合地に収容され,M.Pの指導で戦争の傷を癒していた。

 戦傷患者の重度によって米軍病院と集合地のDispensaryで加療していた。

 そこで公衛部の活動ぶりを具体的に述べる事にする。

(1)戦場整理による生残者の確認と負傷者の対策
(2)新設の住民集落地の医療設備
(3)医師及医療関係者の消息,生存者,労働者の把握
(4)軍々医部からの各面への通報伝達
(5)軍々医部との毎日のmeeting
(6)環境衛生の整備戦後特に多発せるマラリア防遏対策
(7)住民の衣食住対策
(8)医療従事者の教育計画
(9)其の他

 以上多岐に亘る業務で山積した問題処置に大宜見先生はあの巨体を駆して奔走しておられ御気の毒な位だった。

 是で一番重要な課題は日本の正規の医師は66名しかおらず,補充は不可能だった。そこで先生は窮余の一策として戦前迄医療に従事していた人々,例えば軍出身の衛生兵,県の病院,医院で勤務していた看護婦,医師助手(当時薬局生と呼ばれていた)助産婦等々を集め,医療新体制にとりかかられた。

 そして一番問題になったのは現在迄存続している「医介輔」の問題であった。

 当時文教局長の提案による医師速成養成所の設立が局長会で取り上げられたが,大宜見先生は真向から猛烈に反対され実現に至らなかった。それは修了生の資格問題,万が一日本復帰したとき(あの当時日本復帰という事はタブーだったし,全住民は日本と隔絶されると皆思っていた。)身分保障,医師資格問題等難題が起こるの慮って先生は大反対された事を私達に話しておられた。今にして思えば先生の御意見が正しかったとつくづく思われる。然し医師の絶対数は何とか補充せねばならず,上記の医療従事者の中から選考して「医介輔」の出現となった訳である。

 現在に到る迄「医介輔」はおられるが選ばれた方々は誠心誠意,自己研鑽をつまれ特に僻地医療に尽力され,献身ぶりは県民の衆知している事である。

 私は1945年冬から1ヶ年此中城診療所の開設,診療従事を軍々医部から命ぜられ中城村北中城村の両村の村民診療に当たった。1日の外来患者150余名,往診10〜15ヵ所で若さと村民の御協力と当時Medical corp man(米軍衛生兵)の援助に寧日ない日々を送った経験がある。

 医療施設もその後,コザに沖縄中央病院,北部に,宜野座病院,名護病院,中部に前原病院,南部に糸満病院と基幹病院が出来,各帰村した村民集落には診療所が出来大いに改善された。

 之偏えに大宜見先生の対米軍,対民政府に誠意と勇気をもって折衝活躍されたのが効を奏したと思っている。

 その後,大宜見先生は医療体制が一新され医療が順調に実施される情勢を見届けられ部長職を退かれた。その後,首里地区病院長検疫所長として最後の公務員として御奉公され,新装なった琉生病院長として健闘なされたが惜しくも昭和53年1月24日,御逝去なされた。

 想えば,先生は首里の所謂由緒ある旧家に生まれ名護で幼少時を送られ,長じてエリートコースを進まれ御生涯を公務員として全うされ,波瀾多き一生を終えられた。

 先生は,巨体と歯に衣をきせず直言されるので,初対面の人に威圧感を与え中には先生を誤解された方もあるときいていた。(実は私もその一人であった)しかし先生は巨体と反対にデリケートな方で,先輩,友人,後輩にも面倒みもよく以外な面も多々あった。又難事に際しては率先して立ち向かわれた。その証拠には伊江島に於ける米軍弾薬庫爆破事件の際,住民救急の為現場に急走中,不運にも交通事故で重傷を負われ,一生歩行障害碍と云う後遺症を残され以後,跛行の生活を送られた。

 先生の人と成りについては御逝去後数多くの先輩,友人,後輩の追悼記に詳細に書かれている。

 今つくづく当時に想いを致むと戦後本県の医療界に大宜見先生と稲福全志先生そして歯学界の先駆者,平良進先生の御三方がスクラムを組んで困難な戦後処理に御健闘になられた事が今日の医療界の基盤になったと考えられる。この事は当時の医療界に居られた諸先生の熟知をおごれると思う。又申し遅れたが,先生の御夫人も医家の御出身であり,一生多忙だった先生の御世話と安ぎの為に,大いなる内助の功を果たされた。先生の賢夫人の御力も忘れる事は出来ない。御令室は目下御健在で嗣子肇先生の御孝養を受けておられる。

結びの言葉
 何はとも「国に歴史」あり人に「歴史あり」と云われるが,沖縄医療界にも廃藩置県以来,歴史を覆す沖縄戦後,新しい時代を送るため渾身の努力をなされた,大宜見朝計先生の御業績は歴史的に特筆大書せるべき事との思い切なるものがある。

 大宜見先生の御遺徳を偲んで拙文を草した訳だが意十分伝わらぬ点もあり,何卒関会員諸兄の後続の御執筆を望み擱筆することにする。


会報5月号目次へ