<随筆>

南米の旅(5)


中頭病院(外) 平安山英義 

「ナスカ」ヘーそして不時着?
 オプショナルツアの「ナスカの地上絵」見学は不参加のつもりでいたのに殆ど全員参加というのでそれじゃ行ってみるか,となった。
「ナスカの地上絵」は地球上で最も乾いた所とされているナスカの台地に1939年ポール・コソック博士によって発見されている。リマ空港から4〜5名乗りのセスナ機アエロ・コンドル3機に分乗して砂漠の中の町イカに向った。左側にはアンデスの山々,右側には太平洋がみえる。リマからイカまで約308Kmを1時間で飛んだ。上空から見ると正に砂漠の中の町で所々に砂の山があった。海抜600m,海より80Kmの所にある人口5万人の町という。町の中をパンアメリカンハイウエイが通っている。このパンアメリカンハイウエイはコロンビアで東方に通ずる別路がありトランスアマゾニアンハイウエイにつながっている。

 「いつ一体誰が何のために」のキャチフレーズで有名な「ナスカの地上絵」の見学者も増えているようだ。その日も別の日本人団体客が一足先に着いていた。イカの空港から再びセスナ機アエロコンドルに乗り,イカとナスカの町のほぼ中間あたりにある地上絵を空中遊覧しようというものだが団体客が多く,そのフライトスケジュールに大幅な変更を余儀なくされた。午前中はイカの博物館の見学と昼食に行き結局夕方の4時近くになって私達夫婦と大阪からみえた夫婦の計4人の番となった。日も傾き,地上はうす暗くなり,よく見える感じはしない。ナスカの地上絵は光の具合いで午前中が最もよく見えるという。いやなクジを引いたものだと諦め半分だった。(実際にクジを引いた訳ではないが---。)

単発機のアエロ・コンドルは勢いよく飛び立った。副操縦士も含め6人が今日最後のフライトに望んだ。途中2回位旋回を試みていたがその都度10m位,スーと落下するような感じだった。エンジン音には特に異常(N.P)はなかった。やがて機は水平飛行になり「この辺がナスカの地上絵」一帯だと教えて,そこを通り越して飛行を続けた。半時間位南下し,とある小さい空港に着陸した。どうやらここがナスカの町らしい。そこで操縦士が「エンジントラブルだ」といい,小さい空港の待合室に連れていき,飲物を出してここで待つようにと言った。既に空中遊覧を済ませた方々はもうリマに向って飛んでいる頃であった。ナスカの町もパンアメリカンハイウエイが通っており,その中央に立って記念撮影などをして待つこと約1時間して別の双発機のアエロ・コンドルが迎えに来た。私は副操縦士の良い席にすわらされ,途中ナスカの地上絵を見せて,イカには寄らずにリマへ直行するという。夕闇もせまり「地上絵」の所を2〜3回旋回してみせたが,そうかなあと思うほどにしか見えなかった。ハチドリやサル等の写真もとったが夕闇が写っている程度で,ただセスナ機から見る真赤な夕日が印象深かったということになった。(=後日このオプショナルツアーは無効ということで料金の一部をお返ししますという電話が,某旅行社からあった。=最近はこういう仕組になっているようだ。)先にリマに帰った方々には私達2夫婦は「ナスカに不時着したんですって?」と聞かれた。どうやら我々はナスカに不時着したことになっていたような感じだった。

 アエロ・コンドルのセスナ機は計器飛行(IFR)ではなく,有視界飛行(VFR)をしているのであろう。暗闇で,しかもガルーアの中に入っていく時一瞬アンデスの山々の方に向いたような感じがした。大阪の方も1度軽飛行機の免許を取ろうと通ったことがあるそうで,その方も一瞬変に思ったらしい。しかし副操縦士もつれていないベテランで案に相違して機は無事に着地に成功しパチパチものだった。結局皆んなは豪華な中華料理の夕食へ行き,ホテルはもぬけの空であった。我々4人はホテルでシャワーを浴び,お色直し後,荷物をまとめて再びリマ空港へ戻った。今夜の便で帰国するのでもう食事には間に合わないという訳。夕食組はまだ空港には来ていなかったが私達は先に出国手続き,搭乗手続等をすませ出発ロビーに行った。このとき日本人カウンターの若い美人のカウンター嬢がパスポートに目を通し,しげしげと二人を見つめていた。何か手続に不手際があったのかと思っていたら,なんと彼女は沖縄人(ウチナーンチュ)とのハーフだという。南米ペルーはスペイン人の影響が色濃く残されてはいるが,その中でまた移民したウチナーンチュの新芽も繁茂しつつあるなあと感じた。大変混み合う場でそれ以上の話は出来なかったが,目と目でお互いの発展と活躍とを祈った。

尚,ナスカの地上絵見学にいかれなかった加藤さんは1人でリマ市内観光に出たらしい。するとホテルの警備員が絶えず40〜50m後方から見守り,警備に当たっていたということだった。ここではどうやらホテル内及び客の警備一済までも任されているようだ。

 アメリカ航空機(AA918便)にてヨットハーバーの美しいマイアミ,更に「暑いダラス」を経由して帰国した。成田で,自由に使わせて頂いたカメラをお返しして解散となった。

13日間のうちホテルに泊まったのは8日だけで残りは機内で寝て移動するという強行スケジュールだったが,全員元気で無事に帰れた。

 私にとってはリオでの時計,カメラの強奪事件,アマゾンでのピラニア咬傷,リマでのカメラの盗難,ナスカでの不時着(?)etcの語り草になるエピソードを残してスリルとサスペンスにとんだ南米の旅は終った。

 帰ってからしばらくして新聞で民族間の紛争を除けば,中南米での殺人事件が世界中で最も多いと報じていた。この点からしてもやはり南米はすごいと思った。その昔日本はジパングとして黄金の国的存在の時があったようだが,南米もエル・ドラード(黄金郷)として多くの金を実際に産み出している。まだまだどこかに「眠れる黄金」が,日の目を見るのを待っていることだろう。現につい最近リマの南約600Kmのクンツル・ワシ遺跡から東京大学古代アンデス文明調査団が,紀元前500年頃につくられたと推定される黄金の副葬品182点を発見している---。

 外来でリマから帰国したという患者さん2人を診た。そのうち1人は話を聞いていると御主人は何とナスカの出身という。またもう1人の方はカルメン呉屋さんを知っているというのです。「南米は近くなりにけり」でした。

 食事はおいしいし,物価は安く,又まだまだすばらしい所が多い。是非一度はとおすすめしたい。

 それでは  ADIOS!! 1996年

(追)
 後日,多くの方々から写真やビデオテープを頂き,楽しい思い出のアルバムとして残すことが出来ました。
 各位の御厚情に紙上をおかりしまして厚くお礼を申し上げます。
 尚,盗難にあった時計やカメラ等は保険でいくらか補償がありました。


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