南部徳洲会救急・高気圧治療部 小 浜 正 博 |
オーストラリア、南オーストラリア州の12月、真夏である。夕陽に照らされて赤茶けた大地に向かって、双発のキングエアー2000が降下を始めた。眼下の滑走路の側には救急車が待っていた。寂寥とした荒野の中のコンビナートでの爆発事故での外傷患者で、大腿骨骨折と頸椎損傷の患者だった。肋骨骨折、呼吸苦と呼吸音も低下しているために外傷性気胸も疑えるので胸腔ドレナージを行い、固定ボードに患者を固定して機内に入れた。CVPを挿入して輸液ルートを確保し、モニターを装着して大学病院へ搬送のために州都アデレードへと離陸した。患者をケアーしながら機窓から夜の闇の中に点々と見える町の明かりを見ていると、沖縄の離島にいた頃を思い出した。
北部の離島の診療所にいる頃、米軍基地内で軽自動車の転倒事故があった。運転席から上半身をはみだし、胸部を車と道路に挟まれ、心肺停止の状態だった。海兵隊員がCPRをしながら診療所に搬送してきた。呼吸停止、外傷性緊張性血気胸の状態で挿管したあとすぐに両側胸腔にチェストチューブを挿入した。島の基地から既に嘉手納基地のレスキューヘリの依頼が出されており、15分でヘリコプターが飛来し、米軍病院ヘリポートへ向けて離陸した。上空で再度心停止となり心臓マッサージをしながら、ふと後部に目をやると搬入口が空いたままだった。危険を感じるより、眼下の闇に映える街の灯りの美しさにみとれ、一瞬アンビュバッグを押す手が止まった。15分で病院に到着したが、結局救えなかった。この経験は私にとって、かけがえのないものとなった。
当時、急患搬送は島から漁船搬送で行っていた。凪の昼間はまだしも、夜間や強風下の搬送では医者、看護婦、船長、誰もが命がけの仕事だった。港につき救急車に患者を移して県立病院へ搬送した。患者を送っての帰り、船上で夜風にあたり頭は冴えていた。何故、ヘリコプターが使えないのだろうか。ヘリ搬送なら病院まで10分とかかりはしない。どうして米軍への依頼は迅速で、県への依頼は時間がかかるのか。何故、ヘリの搭乗員に救命士を乗せないのか。こんな、経済大国が医療用ヘリすら確保できないのは何故なのか。当時、抱き続けたこれらの疑問への明確な答えは沖縄はもちろん、日本では得られなかった。そのため、オーストラリアへ渡り、アデレード大学救急部でのヘリ搬送、ロイヤル・フライングドクター・サービスでの固定翼による急患搬送に従事し、多くの事を学ぶことができた。そこには命をかけて学ぶべきことがあった。遠隔地での救急疾患や外傷患者の予後を決定するのは受け入れ病院の医療レベル以前に、現場から病院への迅速な搬送体制なのである。さらに、可能なら搬送中に高度な患者管理が行えることが重要である。既に、欧米で確立されている航空機による患者搬送システムは、最近やっとドクターヘリという名で認識されだした。だが、救急医療の中でヘリの迅速性が生かせるのは、最大100km圏内である。それを越える距離での患者搬送は固定翼にはかなわない。
沖縄県では本島から100km圏内の久米島、与論島までがヘリ搬送の迅速性の限界で、それ以上は固定翼を利用した方が賢明である。必然的にドクターヘリ体制の確立後は、固定翼との連携搬送体制をとることが課題となる。
しかし、まずはドクターヘリである。交通事故、災害現場、周辺離島からの搬送にはヘリに優るものはない。よく、救急車で10分の距離にヘリは必要かと聞かれることがある。
当然である。災害現場で、家屋や道路の倒壊のために道路は利用できないのである。救急車は走れない状況だということを忘れてはならない。
21世紀を迎えて、救急ヘリポートのない施設やヘリの搬送体制の整っていない施設は、救急部の看板を降ろしたほうが賢明かもしれない。世界に通用する救急医療体制の確立を目指す日本が、実は先進国の中で最も遅れた救急搬送体制の国かもしれない。
航空機医療は夢物語ではなく、救急搬送医療の最終到達点だということを、2002年の年頭にあたり医療従事者は心にとめるべきであろう。
今、飛び立て、琉球の若き獅子たちよ。空翔る命を守るために。