沖縄県の医療の始まりは古いが,明治9年に熊本鎮台分遣隊が那覇に駐屯し,一般住民にも医療を施したという。那覇に内務省の医局ができ,その後明治12年に県医院となった。その頃宮古島にも出張所ができたらしいが,明治22年那覇県病院と改称した時に,宮古離島出張所は廃止されたとある。(文献1)
富国強兵主義の明治40年,日本政府はハンセン病の療養所を作る必要性を認め法律を制定,明治42年,全国を5つにわけて療養所を作った。沖縄県の患者さんは熊本にある九州療養所(菊池恵楓園)で治療することになった。沖縄県は熊本県に拠出金を出したが,あまり能率が上がらず,沖縄に療養所を作ることになった。しかし,沖縄本島では激烈な療養所設立反対運動が起こったのである。(文献2,3)
一方,名町長と謳われた平良町長の仲宗根勝米(しょうべい)は,宮古諸島の人だけを入院させると説得し,療養所を島尻の地に作った。宮古南静園(最初は宮古保養院)は昭和6年3月7日の創立で,最初は県立である。原野であったので,いろいろな工事に入園者も働かされたという。その後,暴風雨や火災があり,また働かされた。初代の顧問医師は柴田朝雄といい,宮古マラリア防遏所長も務めた人である。(文献4)まだ宮古島に公立の病院がなかった時代である。
昭和8年に臨時国立療養所(内務省管轄)になり名称は宮古療養所と改名,昭和16年には厚生省に移管し,公募で宮古南静園と改めた。
沖縄本島の沖縄(最初は国頭)愛楽園の創立は昭和13年で宮古南静園より遅いが,これは当時の本島の住民の激烈な反対運動によるものである。青木恵哉牧師は迫害をうけな
がら,終に安住の地を決定することができた。
沖縄愛楽園と宮古南静園は,両方の療養所に入った入園者も多いし,現在でも友園として,協力関係にある。
初代の所長は宮古警察署の署長であった。当時の顧問医師柴田朝雄については,園に残されている資料では,入園者の期待が大きすぎたという理由で,その評判はあまり芳しいものでない。なお柴田医師は昭和21年,また頼まれて,こんどは園長心得となっている。
2代目所長は家坂幸三郎(文献4)といい,新潟県出身で熊本医学専門学校卒業。大正11年沖縄県衛生技師となり,昭和8年当園の所長となった。医療,福祉,文化,教育,宗教まで広く意をそそぎ,八重菱学園(園内の学校;寺子屋式のようだ)を園内に創立,またメソジスト系の熱心な信徒として聖書の講義を行った。昭和10年に甦生会(よみがえり)の会と名付ける協会を組織する。これは現在でもその後継の教会がある。
所長自ら宗教を説くというのは,現在は考えられないが,当時は受け入れられたとみえる。なお,以前はハンセン病療養所の医師には,キリスト教を信仰している人が多かった。その影響もあるのか,現在でも入園者にはキリスト教徒が多く,古い統計だが,キリストの教会24名,聖交会27名,カトリック24名,あと天理教,創価学会を含めると84名という。現在はこの数より10名ほど少ないようである。
家坂幸三郎が依願退職した後の第3代所長は多田恵義といい,昭和13年に朝鮮総督府小鹿島更生園医務課長から転任した。彼は前任者に対する敵愾心があったのか,僧侶を西本願寺より招いて,精神訓話の職員とした。しかし,入園者にはあまり評判はよくなかった。(文献5)
外の療養所ではどうであったか。外島保養園では仏教(真宗,真言宗,日蓮宗),天理教,キリスト教が活動していて,無宗教の人は少なく,信仰に生きた人は多かったとある。(文献6)しかしキリスト教にせよ,仏教にせよ,公立の施設で施設長自ら,特定の宗教に肩入れするのは現在では考えられないことである。
当時は戦争に至る時代で,多田恵義所長はあまり評判はよくなかったが,それは時代のせいかもしれない。(文献5)療養所に赤十字の旗を立てていると攻撃されないと公言したが,そういうことはなかった。 昭和20年3月の空襲の後,入園者のみならず,職員(19名くらいか;うち5名の幹部職員が野原師団司令部にいった写真が遺されている)も園外に避難してしまった。白兵戦が起こっても最後まで園内に留まった沖縄愛楽園と比べると,残念なことである。しかし,宮古南静園では頑強な防空壕も作れなかったし,また当時の園長が以前勤務していた小鹿島更生園の園長が,入園者に殺害されたこともあり,心配もあったのかと思う。現在でも職員官舎の壁には無数の空襲の跡がある。
沖縄県における強制収容の記録が入手できたので,記録したい。
伊崎正勝教授65歳の時の文章である。
【卒業後(慶応大学医学部;昭和18年9月)直ちに軍医候補生を志願して満州国奉天省遼陽駐屯の満州第318部隊に入隊して2カ月の訓練後,軍医中尉に任官した。
満州第728部隊の軍医として6カ月の勤務後,第9師団(武部隊)第2野戦病院に転属となった。行き着いたところは沖縄(どこに派遣されるか全く不明であった)那覇市の東風平(コチンダ)村に野戦病院が構築され,私は同病院の軍医として勤務することになった。
沖縄での私の主な仕事は本島全島にわたるライの調査と作戦遂行上ライ患者の収容とであった。当時「小島の春」という救ライ記が,いわゆるベストセラーとなって広く読まれていたが,著者の小川正子女史が克明に感動的に,その中に記してあるのと同様に,私は衛生兵と看護婦を引き連れて,トラックで南に北に走り回って,子どもを両親から取り上げ,夫を妻から引き離して,本島の北にある国立ライ療養所国頭(クニガミ)愛楽園に収容した。武部隊は当時の沖縄の主力隊であったのにもかかわらず,米軍沖縄上陸直前の20年1月に台湾へ移動することになり,第2野戦病院は台湾新竹州坪林(ヘイリン)というところに設置された。私はここで終戦を迎えた】
昭和20年の1年に110名の入園者が,自然壕や,防空壕で亡くなられた。このあたりの検討は筆者がハンセン病学会で行っているが,年度の統計上では死亡率が4割を上回っていた。(文献7)死因として,マラリアに次いで,腎臓炎やカタル性腹膜炎があるが,これらは栄養失調に続発しているものと考えたい。戦争の犠牲者であるこれらの人の名前を平和の礎にそろそろ刻銘してはどうかという意見がでている。
建物の再建,食料の確保,医師の確保など問題が多かった。また,その後,園当局と入園者が種々の問題で衝突したことが数知れず,現在の宮里光雄入園者自治会会長によると,宮古南静園でなく,宮古南騒園(なんそうえん)といわれたこともあるとか。
騒動の種は,主に人事に関することであったようだが,これに関しては開園50周年記念誌(文献5)に譲る。
明るい話題としては昭和24年に化学療法が始まり,ハンセン病が治癒しはじめ,退園者が出始めたことであろう。
ご存じの通り,日本ではらい予防法があり,ハンセン病の隔離政策があった。その初期では,医師,看護婦も少なく,軽い病状の入園者が重症者を介護,看護していた。
熊本のハンセン病療養所では,昭和の初期から20年代に入園者が作った盆踊り歌が残されている。
その一つに
“ しのぶ情けは みな谷川の
おなじ鳴る瀬の 行く末までも
ましてわれわれ あしたに夕に
看取り看取られ むすんだ 縁(えにし)”というのがある。
初期の軽症の入園者は重症者を看護し,自分の行く末をよく理解していたのである。
現在の意味の看護婦の看護が始まるのが昭和30年代からといわれる。
療養所によっては切替寮という珍しい言葉が残っているが,看護介護をだんだん職員に切替えてきたからである。種々の要求も入園者自治会からの要求が大きかった。職員の服
装,帽子にエプロンに長靴といった重装備も,昭和47年ごろ一般の病院と同じようになった。
医療・福祉は,国から与えられるものと考えたが,お隣の韓国ではどうであったか。戦前は日本のらい予防法が行われていたのであるが,戦後は積極的に自立政策がとられたのである。特に治癒した元患者がコロニーを作り,自立して大成功を収めたことは,柳駿博士も述べている。(文献8)ところで,宮古南静園でもそういう計画があったのである。
退園希望者が昭和39年に西表東部を開拓しようという計画である。家族と合わせて約60人が西表島の未開拓地に移住し農業を基盤にして自立更生をはかろうとした。米軍も許可したし,資金のメドもついたのだが,この計画は地元の反対にあって失敗した。その裏には,ハンセン病にたいする偏見があった。韓国の例にならって自立心を養い成功したらと,今となっては悔やまれてならない。
私自身,平成2年であるが,インドネシアのハンセン病コロニーにいって,そこで現地で多数の子どもと共に,生き生きと暮らしている元患者に多数出会ったことがある。
日本政府はハンセン病専門家を宮古南静園に派遣した。その一人の馬場省二博士は復帰後,十年の長きにわたり園長をつとめ,住民検診,学童検診にも精を出された。その苦労は馬場博士の著書”患者が待っている−医の本質を見つめて―”に書かれている。
(文献9)
【検診も偏見の強さからいたずらに患者やその家族を脅かすことになりかねない。この点を踏まえて考え出したのが宮古方式と呼ばれる一般皮膚病の週1回無料奉仕である。幸い(?)宮古には皮膚科の専門医がいなかったので毎回受診者は多く,そのなかかららいの新患が発見された。】
八重山には八重山方式があった。宮古方式とは現在の保険診療で考えにくい無料の皮膚病診療奉仕であった。
平成8年4月1日に”らい予防法”は廃止された。今となっては,何故らい予防法がこの様に長く存在したか不思議に思われるが,すべてのハンセン病の福祉も予算もらい予防法の名前で行われていたために,福祉の後退を危惧する意見が根強かったのである。
ハンセン病の誤解・偏見を解こうという啓発運動が盛んになった。
宮古南静園の入園者の一人は中学中途退学であったが,待ちかねたように,翌年宮古高校定時制に試験を受けて入学し,身をもって誤解・偏見を解くという仕事をされた。
最初は気配もなかったが,らい予防法違憲裁判がその2年後に開始された。その最初の判決は,平成13年5月11日に予定されている。ハンセン病療養所の将来もこれにまた影響されるものと思われる。
最近のことだが,下地幹郎議員の努力で琉球政府時代に退園した人に社会復帰援助金がでることになり,平成13年3月,私は80数名の人に退園証明書を書いたことがある。こられた人は高齢の方が多かったが,お元気でびっくりしたことであった。宮古南静園は,現在入園している人ばかりでなく,多くの人に尽くしたのであるという感を強くした。
ある時,私は納骨堂の前でお祭りしている人々に出会った。【御骨はご実家のお墓に移してもいいのですよ】 と私は言ったのだが,【いや,本人はここが気に入っていましたから】という話であった。不幸にして亡くなられ450柱の御霊になられた入園者にとっても,一時的には当園は依り所であったのである。
ハンセン病を撲滅した真の原因は何であったろうか。食料事情,居住環境,水の事情なども改善されたが,私は感染源対策(患者をみつけ,治療すること)がもっとも重要であったと思っている。改めて先輩たちの功績を称えたい。
不幸にして,現在は批判されている元職員も,それなりに,入園者のために働かれたのである。
先島におけるハンセン病医療・福祉における宮古南静園の意義はたいへん大きかったと言いたい。
1)稲福盛輝:沖縄医療史の黎明期;p50. in 沖縄の歴史と医療史 九州大学出版会.1998.
2)犀川一夫 : 沖縄のハンセン病疫病史 -時代と疫学- 沖縄県ハンセン病予防協会,1993.
3)犀川一夫 : ハンセン病政策の変遷- 沖縄県ハンセン病予防協会,1999.
4)平良市史:第8巻(考古・人物・補遺),1988.
5)宮古南静園・宮古南静園入園者自治会 : 開園50周年記念誌,1981.
6)邑久光明園入園者自治会編:風と海のなか.1989.
7)菊池一郎:宮古南静園における戦時中の死亡率,日本ハンセン病学会雑誌 69,54,2000
8)Lew J: A Korean model for the healing of leprosy. Lew Institute for biomedical research. 1993.
9)馬場省二:”患者が待っている−医の本質を見つめてー”朝日新聞社.1992.
