<リレー随筆>

私の趣味−ドッヂボール



沖縄県立中部病院  
宮 城 良 充 




たかがドッジ,されどドッジ(1)
 タイトルの“たかがドッジ,されどドッジ”は私の友人M氏が好んで口にする言葉である。小学校の中で最も盛んなスポーツはサッカー,野球ではなくこのドッジボールといわれている。私がここ8年間どの様に“ドッジボール”にのめり込んでいったかお話したい。

ドッジボールの歴史
 読者の大部分は恐らく“デッドボール”を小学校の時代に一度はやったことがあるに違いない。
 ドッジボールの起源は明らかではないが,原始時代にあるとも言われている。当時狩猟の道具もない狩りは,石や岩石を獣に投じて狩猟していた。マンモスと原始人の格闘シーンの想像図を見た方も多いであろう。まさに何かを投じる行動が生活を支えていた訳で,子供たちも親の行う行動を目の当たりにしておぼえて,石ぶつけという遊びで生活に必要な術を身につけていったのである。石器や鉄器の発見で狩猟の形態も変化していき,石ぶつけは遊びの様相が強くなってきた。しかし,石に当たるとは危険でもあり遊びとしては広がらなかった。中世ヨーロッパの狩猟文化の強いところでは,石の代わりにボロ切れを丸めた“ボール”が誕生し,動物役の子供にぶつける狩猟ごっことも言うべき遊びが広まっていった。次第に遊び(play)から競技(game)と変化し,イギリスなどでは“デッドボール”へと進化した。これは半径4m程の円を地面にかき獲物となる動物役の子供が円の中に入り,周囲の子供たちが円外からボールをぶつけるというものであった。
 では,日本にはどの様に伝えられたのか。これもまた明らかでない。1909年(明治42年)とも1912年とも言われている。しかし,現在のドッジボールの原点というべき“デッドボール”は1913年(大正2年)に学校体操教授要項に紹介された。1924年東京府体育研究会によって,円内で逃げ回る一方の子供にキャッチが認められるように規則改正し全国に広がっていった。1926年(大正15年)学校体操教授要項の改正の際に名称もドッジボールに改正された。
 使用するゴムボールも手に入りやすくなったことから,全国の子供たちに出来る手軽なゲームスポーツとして広がっていった。
 現在ドッジボールは四角のコートになり,ルールも数種有る。沖縄では一頃はスーパードッジボールが盛んであったが,不況のため後援スポンサーが付かず,大会は開かれていない。沖縄リクレーション協会が考案した沖縄独自のダイナミックドッジボールがある。年一回国体開催を記念した大会が開かれているが,小学校全体に普及してはいない。いま,全国的に話題となっているのが,日本ドッジボール協会の提唱するドッジボールで,全国大会が年二回開催されている。“ドッジ”とは英語でdodge=かわすことで,飛んできたボールを巧みにかわすことであるが,現在では“闘球”とも言われるようにボールの格闘技と変化している。

ドッジボールに係わるきっかけ
 ドッジボールといっても私自身がやるのではない。主役は小学生で,私はコーチ・監督として8年間係わった。ドッジにのめり込んだきっかけを説明する前に,まず,子供の通った小学校の話しから始めなければならない。
 私の子供たちは,幼稚園がたまたま宗教関係であったため,小学校もC小学校に進学した。小学校は出来て1年目の真新しい学校で,長男はそこの2回生となった。何しろ出来たばかりの学校であるから,無々づくしであった。グランド整備,植栽,行事の準備,募金活動すべて父母の協力なしでは何事も進まなかった。しかし,職員も父母も新しく,他にない学校作り夢を持ち,多少の苦労などもろともしなかった。全校でも3学年しかない運動会では,子供たちだけではプログラムが淋しいと言うことで,お母さん方にも出場を願ったところ,子供の運動会か親の運動会か訳の分からない盛り上がりをみせることもあった。
 3年生になり,長男は担任の先生の声かけでクラス友達同士でドッジボールの大会に参加することとなった。1チーム7人で息子は8人目の補欠であった。先生の「第一試合は補欠で待っていてね。次の試合は出して上げるから」の言葉を信じて待っていた。しかし,ものの見事に初戦敗退。出場できず子供ながらさぞかし悔しかったに違いない。
 4年生になった。母親(私の妻であるが)は今年は7人だけのチームにすれば長男も出場できると秘密裏に事を進め,仲のよい子供たち7人を集めた。しばらくすると,話を聞きつけた同級生のO君が入りたいと言って来た。母親は,はたと困ってしまった。ところが長男が「おかあさん。O君も入れて上げて。自分が補欠になってもいいから」と申し出た。去年あんな悔しい思いをしたのに。この大らかさは……この優しさは……。この話を聞いて感激し“よし,お父さんがドッジボールの監督になって面倒見よう”そして“どうせやるなら多い方がいいなどと口走ってしまったのが,続く8年の始まりだった。

ドッジボール創始の2回生
 当時はスーパードッジボールが主流であった。これは,1チーム7人で内野で当てられたものは外野のプレーヤーと交代,外野で敵を当てても内野に戻れないルールで行われる。1〜2年,3〜4年,5〜6年の3部門があり,1〜2年と3〜4年の2部門にエントリーした。1〜2年は長男のチーム結成時に付録として出来た次男のチームが参加することとなった。このチームはのちに沖縄で最強のチームとなったが,後で紹介したい。
 私たちの戦後のベビーブームで生まれた時代と異なり,1学年2クラスで,1クラス男女合わせて37人しかいない。学年の半分にあたる運動好きな男子が16人集まり練習を開始した。優勝したチームには褒美として,JTAから本土の2泊3日の旅行招待が提供されていた。出るからには優勝を目指そうと子供たちを鼓舞した。目の前のおいしい人参に小馬たちは力強く走り出した。(次号へ続く)


監督「次の試合の作戦は○□△×……でいくぞ!!」
S君「ピース〜まかせなさい!!」      


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